2019/04/13
「個人の在り方」と「ひとりよがり」の違い
理念・哲学
前回の記事で個人の在り方の確立の必要性を説きました。
過去記事はコチラ↓
https://principal-kobe.com/column/なぜいま「個人の在り方」の必要性を説くのか/
本文中で「ひとりよがり」について一部触れたのですが、今回はその「ひとりよがり」と「個人の在り方」の違いについて解説しておきます。
ひとりよがりとは、言わずもがな「独りで孤立」している状態です。
それは、他人からの自分への接触と、自分から他人への接触、その双方を極端に制限している、変化や進化を好まない人間嫌いの閉鎖的状態と言えます。
一方で、著者が提唱する「個人の在り方」とは、先述の「他人⇒自分、自分⇒他人」の相互関係を適切に判断して関係性を築く開放的状態と言えます。基本的に人間が好きな人です。
もう少し詳しくしますね。
個人の在り方の確立、その目的は、ひとりの人間が存在する意味が、それぞれの「役割と意思」にあるからです。
ここ、大事です。
要は本人が意図していたとしても、していなかったとしても、世の中、何処か、必ず何かの役に立てる存在だからです。
しかし、そうなれない人がいます。
それが、独りよがりです。
なぜひとりよがりに否定的な表現をしてしまうかというと、また真理的な話になるのですが、
もし人間が独りよがりで良い生命体ならば、創造主はこんな設定で人類を創っていないのです。
善悪あるグレーゾーンでの多種多様な人間同士のコミュニケーション。
個(自分)と他(他人)の、相互関係・相互作用で生み出される創造性。
それが在り方であり、役割であり、意思であり、理念であり、創造主の望みなのです。
きっと独りよがりになってしまう人は、こう思うのでしょう。
自分が存在する意味や役割がない。または、他人に分かってもらえない、疑ってしまう。
もう一度考えてみてください。
あなたがこの世界の創造の主だったら、役割や意味のない人を作れる仕組みを作りますか?
違うはずですよ。
でも自分のやりたいことが見つからない?
過去にやりたかった事があったなら、それに一度でもチャレンジしましたか?
何かの理由でそれが出来ないから、諦めたんですか?
諦めたら本当に終わりですよ。だって諦めてますからね。
自分のやりたい事はですね・・・
結構小さい頃に核心があるんです。
小学校4年生くらいまでの自分が何をしたかったか。
ちょっと思い出してみてください。
社会のしがらみに囚われず、純粋に夢に憧れ、「わたし、ぼくは、こうなりたい!」と発言していた頃を。
何も壮大な社会的地位があることでなくていいんです。
美味しくごはんを食べ続けることが自分のやりたいことでもいいし、ボランティアをすることでもいいし、スポーツ愛好家でもいいです。
どんなことでも、あなたが心から望むものなら、そこには「絶対的な価値」があります。
そしてそれは“必ず”社会から必要とされます。
「社会の役に立つためには、まずは自分が幸せになってからでないと!」
最近ではこの教義も目につきますが、著者は少し違う観点です。
確かに自分が幸せであることが他者の幸せになることはありますが、必ずしも自分が幸せだと言えない状況でも、何かのために自分の役割が当てはまり、役に立てたことが自分の幸せになることだって必ずあるのです。
冒頭にも書きましたが、本人が意図していたとしても、していなかったとしても、世の中、何処か、私たちは必ず何かの役に立てる存在なのですから。
個人の在り方の確立・・・
それは、自分のみで確立されるものではなく、他との関わりの中で生み出される創造性を指します。
人のみならず、自然界に存在する有りと有らゆるもの、「森羅万象」と共にあるのです。それが創造主の望み。
さらにこの究極は「男女の共存」となるのですが、この内容は長くなってしまうので、次回以降の記事で書くことにします。
最後に、
記事タイトルにある2つの違いをまとめておきます。
個人の在り方の確立は、創造主の望み。
ひとりよがりの孤立は、創造主の嘆き。
皆さんひとりひとりにかかっていますからね。